地中海世界における社会変動と識字率
【研究分野】西洋史
【研究キーワード】
地中海世界 / 古代 / 中世 / 社会史 / 識字率 / オーラル文化 / 官僚制 / 商業交易 / 初等教育 / 人口動態 / 社会変動
【研究成果の概要】
言葉の奥にひそむ感情の表現という点では、文字言語は音声言語に劣る。しかし、感情を抑制し統制する資質をもつところに、思考する存在としての人間が生れる。文字としての言葉が見出され磨きあげられていく過程には、思考という知的作業が大きく関わっていたことがわかる。読み書き能力が普及するにはアルファベットのようなわずか二十数文字で表現することができなければならなかった。そのアルファベットは楔形文字のメソポタミアとヒエログリフのエジプトの中間に居住するフェニキア人の手で確立した。
線文字Bとアルファベットとの間には音素に着目すれば記法に連続性があり、そこからオーラル文化としての伝統が濃厚であったことがわかる。古典期においても事態は大差なかった。その後においても、地中海世界における口伝社会の情況は基本的に変らなかったが、都市/農村、沿岸部/内陸部、上層民/下層民、あるいは男性/女性などの諸点で多様な偏差や変動が見られる。聖典をもつユダヤ人の都市集落ではかなりの読み書き能力があり、イタリア地方都市のポンペイでもその落書きの残存から低度ではない識字率を推測することができる。しかし、これらが沿岸部都市の男性に偏る推測であることも留意しなければならない。
古代末期から中世初期において識字率の衰退現象が見られるが、官僚制の作動する地域では文書主義の徹底化にともなって読み書き能力の利益を感じる人々も少なくなかったという。しかし、読書人口という点では明らかな後退があったことは否めない。とはいえ、11世紀ごろから読書とテクスト理解を容易にする工夫が現れ、とくに都市部においては商人や職人たちの間で識字率の上昇が目につくようになった。とりわけシチリア島のパレルモを例にとれば、ラテン語、ギリシア語、アラビア語の公文書が錯綜する多言語の官僚制社会であった。
文字言語が思考の密度を高めることは明らかであるが、文書主義は必ずしも社会の活性化につながっているわけではない。しかし、文字言語は社会の組織化・制度化にひとかたならぬ役割を果たすことも明白になった。
【研究代表者】